白み始めた空を見上げて
もう夏も終わりだな、と
穏やかな笑みのままに
くわえた煙草を灰皿に軽く押し付けた。
夏の終わりはいつも、何某かの切なさや寂しさを覚える。
日中の暑さも大分納まり、夜になれば涼しげな風が室内を吹き抜ける9月中旬。
坂本は自室のベランダに出て煙草を燻らせていた。
現在時刻は既に明け方の4時を過ぎている。
押しに押した仕事からようやく開放されて今帰って来たばかりの彼は、すでに今日の仕事に向かう時間がもう二時間ちょっと後に迫っており、今から寝るには大分中途半端でどうしようかと考えを巡らせた末、ベランダで朝焼けの観賞としけこむ事にしたのだった。
ベランダにある室外機の上に灰皿を置いて、手すりに体を凭れて濃紺と茜色が複雑に入り混じる空を眺める。
日中のような暑さの煩わしさがないので、清々しいその空気の中眠気を吹き飛ばすようにううん、と背伸びをした。
気持ちのいい朝焼けの景色に、しかしどこか心が何かに締め付けられるような感覚を覚えて眉を寄せ、髪を揺らす涼しげな風に侘しさや幾許かの悲しさを感じずには居られなかった。
理由はもちろん、分かっているのだが。
と、ズボンのポケットから伝わる振動。
すぐに坂本は自分のズボンの右ポケットから振動の原因・・・携帯電話を取り出した。
今年の自分の誕生日に、仲間たちがプレゼントとして買ってくれた真新しいそれに口元を綻ばせる。
・・・っと、感慨深げに見つめている場合じゃなかった。
坂本は改めてサブディスプレイに表示されている着信相手の名前を見た。
そこに表示されていたのは『長野博』の文字。
こんな時間に彼から電話がかかってくることなど滅多にないので、坂本は何かあったのだろうかと眉を寄せてから、くわえていた煙草を灰皿に押し付け折りたたみ式の携帯をぱかっと開いて通話ボタンを押した。
「もしもし?」
『・・・あ、もしもし、坂本くん?』
「ああ」
鮮明に聞こえてくる電話先の長野の声は、どこか驚いたように坂本の名前を呼んだ。
コール数は10回を越えていたから、もう出ないものだと諦めかけていたのだろう。
ついメンバーに貰った携帯が嬉しくて、それを見つめていたせいで電話に出るのが遅れてしまったことに、坂本は心の中で悪いと手を合わせた。
『ごめん、こんな遅くに。寝てた?』
「いや、今さっき帰った所だ。撮影がやたら押してさ」
苦笑交じりで坂本がそう言えば、「そうなんだ。お疲れ様」と長野の柔らかい声が返って来る。
「で、なんかあったのか?こんな時間にお前が電話してくるなんて珍しいよな」
『あ、うん、そのことなんだけど・・・』
長野が困ったような声で説明した突然の電話の理由はこうだった。
明日・・・つまり今日、突然の一部スケジュール変更があったので該当のメンバー各自に連絡をしなければいけなくなったマネージャーが、しかし急に風邪でダウンしたらしく、たまたまその場に居合わせた長野がスケジュール変更の連絡をすることを引き受けたらしい。
『こっちもバタバタしてて連絡が遅くなっちゃったんだけど、そういうわけで坂本くんたちの明日の撮影は午後からになったから』
との長野の言葉にそれじゃあここで時間を潰している必要もないか、と坂本は新しい煙草を胸ポケットから取り出して火を点けた。
「分かった。わざわざ悪かったな」
『ううん、こっちこそ遅くにごめん。じゃあおやすみ』
「・・・あ、ちょいタンマ!」
電話を切りかけた長野を坂本の制止の声が止める。
ギリギリそれは長野に届いたようで、「え?」と言う不思議そうな声で問い返してきた。
『どうかした?』
「お前確か明日・・・つーかもう今日か。オフだったよな。それは変わりなしか?」
『うん、そうだけど?』
「今どこにいるんだ?」
『今は家にいるよ』
長野から返ってきた答えに坂本は煙草をくわえたままでにやりと口元に笑みを浮かべ、唐突なことを言う。
「ベランダに出て来いよ」
『へ?何で?』
「俺の朝焼け観賞に付き合え」
『・・・って何それ』
「いいだろ?ちょっとくらい付き合えよ」
『もう4時半近いんだけど・・・』
そんな風にぼやきつつも、どうやら長野はベランダへ移動を始めたらしい。
携帯から遠く聞こえてくるベランダの窓を開けるカラカラという渇いた音に、「なんだかんだいって付き合い良いんだよな、こいつ」なんて思って、坂本はくくっと忍び笑いを漏らした。
『坂本くん?何笑ってるの?』
「あ?あぁ、いや別になんでも」
なんだか腑に落ちないとでも言いたそうな声の長野は、ベランダに出たことを坂本に伝えた。
『ベランダ、出たけど?』
「おう。どうだよ、そっちの朝焼けは」
『・・・なんかその言い方って随分遠い所にいるみたいじゃない?』
変なの、と長野が笑ったので坂本はそうかぁ?と返す。
そう遠くない所とはいえ、やっぱり二人の家にはある程度の距離があるわけで。
ここから見る朝焼けと長野の家から見る朝焼けでは見え方が違うのではと思って言ってみたのだが、坂本は何処か独り言を呟くようにして微笑んだ。
「ま、何処に居ようが空は繋がってんだよな」
『・・・って何急にロマンチストになってるわけ?』
なんだか気味が悪い、などと言う長野の一言に苦笑して、たまにはいいだろ?と言い訳を口にする。
「なんつーかさぁ・・・」
『うん?』
「・・・・・」
長野の相槌に十分な間を置いて、坂本はすっかり薄いオレンジ色へと変化し始めている空をじっと見つめた。
煙草の煙をゆっくりと吐き出しながら、どこか夢見心地の声で続く言葉を紡ぐ。
「夏の終わりを感じる時ってさ・・・無性に泣きたくなったりしないか?」
そう言って、瞳を閉じた。
まぶたの裏に映るのは、様々な思い。
始まりを知らせる朝焼けの中でも、胸が締め付けられる思いがするのは。
日差しの強さよりも、冷たくなった風に物悲しさを感じるのは。
夏が終わりを告げるその瞬間に自分が立っているからで。
「なんでなんだろうな」
ゆっくりと、瞳を開いた。
携帯の向こう側で長野の空気を吸い込んだ息遣いだけが静かに聞こえる。
言葉を発しようとして、けれどふっとそれをやめた彼の密やかな沈黙に、どこか心地よさを感じた。
ゆっくりと、穏やかな風が頬を撫でて行くくすぐったさに瞳を細め、坂本は口元に緩やかな笑みの形を作った。
タバコの白い煙が空に伸びて、彼の視界を滲ませてゆく。
きっと、今長野もこの空を見上げて、何事かを感慨深く思っていることだろう。
憶測だけれど、妙に自信の持てるその考えに坂本は口元の笑みを深くした。
『・・・大分、涼しくなってきたよね』
しばらくの後、坂本の問いかけには答えずに、そんな事を言ってきた長野に、
「あぁ」
と、ゆっくりと噛み締めるように、ゆったりとした声で坂本は答える。
肺の奥まで吸い込んだ煙草の煙を、深く深く吐き出して。
「夏ももう終わりだな」
坂本は何処か寂しげで、物悲しげな言葉を落とした。
日が昇っていく瞬間と夏が終わる瞬間。
始まりと終わり。
全く対照的な意味合いを持つこの二つの瞬間が合わさった日。
こんな日は何がどうと言うわけでもないのだけれど
無性に胸が切なくなって、泣きたくなって。
無性に誰かにそばに居て欲しくて、声が聞きたくて。
感動とは違う、また別の感情に突き動かされて。
だから坂本は長野を引き止めたのだ。
『祭りの後、ってやつに似てるのかもね』
「ん?」
不意に電話先の長野がそう呟いた。
ふふふと、何処か楽しそうに笑って続く言葉を坂本に言い聞かせるように紡ぐ。
『大丈夫だよ。季節は必ず巡ってくるものなんだから』
何処か的外れな回答にも思えるその言葉に、しかし坂本は微笑んだ。
当然長野には見えないけれど、とても穏やかな表情で。
『終わりを見るよりも、俺は始まりを見るほうがいい』
だから≪夏が終わった≫のではなく、≪秋が始まった≫のだと長野は笑う。
夏が終わる瞬間の儚げな物悲しさよりも、秋が始まる喜びを感じていたいのだと。
そう、それこそ季節はまた巡ってくるのだから。
『それにしても清清しい朝だね。今日も天気よさそう』
「あぁ、そういえばそうだな。っと、もうこんな時間か」
ベランダから室内の壁掛け時計を見て、時計の針が既に5時を指していることに気付く。
さっきまでの薄いオレンジ色は既に白み始め、どこかでスズメが鳴く声が聞こえた。
それは朝の訪れを象徴するBGMだ。
「なんか付き合せて悪かったな」
『はは。今更殊勝になられてもねぇ』
お互いこんな仕事をしているので不規則な生活には慣れているつもりだが、それでも流石に今は睡魔がジリジリと迫り寄ってきている気がした。
ふあっと、どちらからともなくあくびをして、そのタイミングの見事さにくすくすと笑う。
「いいかげん寝るか〜」
『そうだね、って言っても坂本くんそんなに睡眠時間ないんじゃない?』
「ま、ギリギリまで寝て6時間ってとこか。十分十分」
『それじゃあ早く寝ないとね。おやすみ』
「あぁ、お休み・・・っと、長野」
『ん?何?』
「・・・ありがとな」
そのお礼の本当の意味に気づいたのかどうか。
一瞬の間を置いて、長野は小さく笑っていつもの穏やかな声で
『どういたしまして』
と言い残し、もう一度おやすみと聞こえてから電話は切れた。
坂本もしばらくの間を置いた後、ボタンを押し込み通話を終了させる。
もうあの幾許かの悲しさや侘しさ、切なさを感じることはなくなっていた。
今はすごく心の中が穏やかだ。
もう、夏も終わりだな
もう一度そう思ってから、長野が言った言葉を思い出す。
いや、終わりじゃなくて、もうすぐ秋が始まるわけか。
そう考えるだけで、なんだか凄く前向きになれた気がした。
「さて、それじゃあ寝るか〜」
うんっと大きく背伸びをして体を伸ばす。
くわえっぱなしだった煙草を室外機の上の灰皿に軽く押し付けた。
そしてふと、思い出したようにもう一度だけ白み始めた空を見上げて。
「今日も一日、頑張りますか」
これから寝るというのにそんな事を言ってから、坂本は晴れやかな気持ちで穏やかな笑みを浮かべ笑った。
それは夏の終わりと秋の始まりの、ほんの些細な出来事。
END.
■COMMENT.
多分半年以上熟成させてしまった小説でございました。(笑)
それを今更完成させて出す俺もチャレンジャーだ。
多分坂本氏の携帯電話話を入れたいがために書いた話だったような。
とにかくこの時期はツートップ話が書きたくてしょうがなかった気がする。
ウチのサイトにしては珍しく、そんなにへたれじゃない坂本氏でございます。(笑)
しかし朝焼けの情景を書ききるには俺の腕はまだまだで・・・凹む。
もっと表現の勉強をしたいと思います。
2005.03.11.Friday up.
Background Photo : Sky Wonder Honeymoon