「あ、いのっちー」
打合せに向かうため、エレベーターホールで下りのエレベーターを待っていた時。
不意にそう呼ばれた井ノ原は、手元の書類に落としていた視線を上げ、声の主を探した。
ちなみに『いのっち』と言うのは彼のあだ名である。
ゆえにその声が誰のものであるのかは、相手の姿を確認する前から既に分かっていた。
何故ならば、営業部の部長という肩書を持つ井ノ原を、親しみが込められたそのあだ名で呼ぶ人間は、社内に限って言えばたった一人しかいないからだ。
「もー准ちゃん、社内ではいのっちって呼ぶなって言ったでしょー」
ほどなくして。
後方からてくてくと歩いてくる男を見つけた井ノ原は、ふにゃりと顔を緩めそう言葉を返した。
どうやらその内容とは裏腹に、あだ名で呼ばれたのが嬉しかったらしい。
やけに弾んだ声に迎えられた相手は、んふふと独特の笑い方をして口を開いた。
「いのっちも准ちゃんって呼んでるじゃん」
敬語もなく、近しい空気を保ったままそう言って返したのは、ギリシャ彫刻レベルで彫りの深い顔をした美形の男だった。
彼は社内一の鼻を持つと評判の調香師であり、名を岡田准一と言う。
正直な話、周囲が引くほどに香りにしか興味がない、とことんマイペースな男である。
「俺はいいんだよ!これは部下とのコミュニケーションの一環だもん!」
「でも今のこのご時世、名前呼びはセクハラって言われるよ?」
「うっ!」
「そう言えばいのっち、最近入った女性の新人さんも名前で呼んでるよね」
「くっ!」
「コンプライアンス違反とか・・・」
「す、ストーップ!!もうそれ以上は言うなっ!!」
「んふふ」
営業部の部長でありながら、誰とでもわけ隔てなく接する井ノ原の、いわゆるコミュ力と言うヤツはかなりのものだ。
それゆえ上司からも部下からも、更には取引先からも井ノ原の評価はすこぶる高く、信頼も厚い。
なので少々馴れ馴れしい位のコミュニケーションは誰もが許すところだろう。
もちろんそれを岡田とて理解していないはずもなく。
分かっていながら井ノ原を追い込むようなことを言うのは岡田の茶目っ気である。
楽しそうに笑う彼に苦笑してから、井ノ原はそう言えばと言い置いて、手元の書類を岡田に向けた。
「今度バレンタイン用に新しいコスメの企画が上がってるんだけどさ、担当をその新人の彼女に任せようと思ってるんだよね」
「ふぅん。新人さん一人に?」
向けられた書類へ目を通しながら問う岡田に、井ノ原は首を横に振った。
「いや、彼女を中心としたチームで当たってもらう予定」
「え、じゃあ健くんもいる?」
いきなり期待に満ち満ちた大きい目を向けられて、井ノ原は細い目をぱちくりと瞬かせた。
健くん、と言うのは井ノ原の部下であり、営業部の太陽とまで言われている期待のエース、三宅健の事である。
明るく元気でとにかく相手の懐に飛び込むのが上手い彼は営業を天職としており、またその年齢不詳レベルで愛くるしい外見から老若男女に好かれる希有な人物だ。
どうやらそれは香り以外に興味のベクトルが向くことがほとんどない岡田も例外ではないらしい。
なんだか妬けちゃうよなーと少々の嫉妬心から井ノ原は唇を尖らせると拗ねた顔を作って言った。
「お前、ほんと健ちゃん好きなー」
「うん。あ、でもいのっちの事も好きだよ?」
にっこり微笑んでそんな事を言ってくれる岡田に、ちくしょう可愛いヤツめ!などと思いつつ。
照れながら「お、おう。ありがとな!」と返してみた井ノ原だったが、しかし。
「まぁ一番大好きなのは長野部長だけどね!」
・・・・・・大っ変きらっきらした目で言われました。
うん、知ってた。
俺それ超知ってた。
井ノ原は思わずがくりと肩を落とした。
どういうわけなのか。
岡田は優しい微笑みを浮かべながら鬼のように仕事をこなす、海外戦略部の凄腕部長、長野博にすこぶる懐いているのだ。
そうなるに至った経緯についてはさっぱり謎ではあるが、岡田の懐きっぷりは相当なもので、あの人ほんと無自覚の人たらしだよなぁ、と井ノ原は苦笑する。
何せ、社の広報を担当する宣伝部に所属しながら、かなりの人見知りで、同僚相手にさえなかなか胸襟を開かないと言うあの森田剛ですら、長野には無邪気な笑顔を向けるのだ。
あの人の愛され力は計り知れないな、などと思う井ノ原である。
(ちなみにそんな彼自身もまた、長野のことはかなり好きなのである)
「・・・っち。いのっち、聞いてる?」
「ぅえっ!?あ、おお、聞いてる聞いてる!」
「いや、全然聞いてないじゃん」
完全に思考を明後日に飛ばしていた井ノ原が慌てて返事をすると、岡田に苦笑いされてしまった。
彼はそれを確認させるように井ノ原の目の前を指差すと言った。
「来たよ、エレベーター」
「あ、ほんとだ」
いつの間にやら目の前の扉が開いている。
サンキュー、と言い置いて中に入ると、それに続いて岡田も入ってきたので井ノ原は首を傾げた。
「あれ?お前も下でいいの?」
「うん。これからお昼だから」
「ってもう三時になるぞ?」
「ん。調合に夢中になってたらお昼忘れちゃって」
それはなんとも岡田らしい話である。
上司からさっさと行って来いと部屋を追い出された、との事なので、思うに常習犯なのだろう。
「なんだよしょうがねぇなぁ。じゃあイノッチがランチに付き合ってやりましょう!」
「え?でもいのっち仕事・・・」
「三時は全国的におやつの時間なんだぜ岡田くん!」
「えー」
大丈夫かこの部長、と言う目を向けられたが、それくらいでくじけるイノッチじゃないぜ☆
細い目を更に細くしてにんまりと笑った井ノ原は、目的のフロアで停まったエレベーターから降りると、くるりと後ろを振り向いて、呆れ顔の岡田にウインクを一つ飛ばした。
「んじゃ書類置いてくるから玄関で待ってろよな☆置いてったらいのっち泣いちゃうからっ!」
「・・・分かった」
呆れを通り越して苦笑いをしている岡田は多分、コイツなら本当にやりかねないなとでも思っているのだろう。(そしてもちろん井ノ原は本気でやるつもりである)
ひらりと手を振り、閉まる扉を見送ってから、さて打合せの時間変更をしなくちゃな、と井ノ原はやや弾んだ足取りで廊下を歩くのだった。
2015.02.12 / 日記アップ
2016.10.17 / Novelページアップ
2017.01.01 / マルチデバイス対応化
2018.10.15 / 加筆修正