こもれびのばしょ。
こもれびのばしょ。
感情の波をなんとかやり過ごし、井上がふうと密やかに息を吐き出した時。
スーツの胸ポケットに入れてあった携帯が数度振動してメールの着信を報せた。
一応隣の加納に断りを入れてから携帯を取り出すと、サブディスプレイには『笹原』と文字が表示されている。
何だろう、とかちかちと携帯を操作して開いたメールの本文には、『あんた今どこにいんの?』と言うなんとも笹原らしいシンプルな一文が並んでいて。
ふと目に入った、携帯のデジタル時計が示している時刻に、井上はぴしりと固まった。
現在PM2:58。
これはちょっと・・・マジでヤバイ。
「しまったっ!!」
思わず声をあげてソファから勢いよく立ちあがると、未だ小競り合いを続けていた村瀬と青柳を含め、部屋内すべての人間が一様に動きを止めて、一体何事かと井上に視線を送ってきた。
「薫くん?どーした?」
「あっ!す、すみません、ちょっと長居し過ぎて時間が・・・!」
「え?っておお!もうこんな時間!?」
腕時計で時間を確認した浅輪が細い目を見開いて言った言葉に、全員が同じく時間を確認して口々に「おお」やら「あら」などと声を上げる。
ほんのちょっとの休憩のつもりが、あまりの居心地の良さに時間を忘れ、気付けば随分と長居をしてしまったらしい。
仁王立ちプラス鬼の形相で待ち構えている笹原が容易に想像できて、井上は頭を抱えたくなった。
「あ、あの、浅輪さん、エスプレッソ、御馳走様でした!」
「はい、お粗末さまでした。ってそれよりなんかごめんな?長々と引きとめちゃって」
慌ただしく帰り支度をする井上に、浅輪がそう謝って申し訳なさそうな顔をしたので井上は慌てて首を横に振る。
「大丈夫です!それに、楽しかったっすから」
それは嘘偽りのない、心からの言葉だ。
ちらりと隣の加納を盗み見れば、穏やかに微笑む顔がそこにあって。
だかららちょっと、ほんの少しだけ。
些細な我儘を口にしたくなった。
「……あの、浅輪さん」
「ん?」
どうした?と聞いてくれる浅輪に、井上は思い切ってそれを言葉にしてみる。
「また…来てもいいですか?」
我ながら随分と恐る恐るの声だ。
それを内心で苦笑しながら、井上は浅輪の返答を待つ。
すると、まさに破顔一笑。
嬉しそうに笑った浅輪が、大きく頷いて言った。
「もちろん!いつでもおいで。ね、係長」
「うん。いつでもどうぞ」
いつの間にかソファから立ち上がっていた加納も、そう応えて柔和な表情で頷いてくれる。
二人の手放しの歓迎を受けて、井上は喜びから自然、頬を緩めた。
「ここは休憩所じゃないんだけどな・・・ぐはっ!」
「もちろん大歓迎よ!いつでも来てね!」
真面目腐った顔で苦言を呈す村瀬の、その横っ腹に素早く肘鉄を入れて、小宮山は実ににこやかに言う。
「まぁコーヒーとエスプレッソくらいしか出ねーけどな」
「あ、でもたまに係長の手料理も出ますよね」
だから次は係長が何か作ってくれる時においでよ、と矢沢が笑い、そうだな、と青柳が頷いた。
「……ありがとうございます」
心からの感謝を込めて、井上はそう口にする。
『大丈夫』
加納に貰った力強くも優しい言葉を反芻し、自分の中に沁み込ませる。
井上がこれから立ち向かって行かなければならないのは酷く大きな、途方もない闇だ。
その中でも、この木漏れ日を思い出せばきっと、自分は迷わず前に進んで行ける。
心から、そう思った。
「それじゃあ、また来ます」
柔らかな笑みに見送られて、井上は踵を返す。
大丈夫。
俺はきっと、大丈夫。
最後にもう一度そう唱えると。
密やかな決意を胸に、彼は自らの戦場へと足を向けるのだった。