酷暑が続いた今年の夏を引きずったように、東京は10月に入ってもずいぶんと暖かい日が続いていた。
とはいえ朝夕はいくらか気温が下がり、北風が吹く日にはずいぶんと涼しくなる。
けれどもどうやら今夜はあいにくの南風らしく、すっきりと涼しくはならなくて。
長袖を着ていた彼は袖をひじまで巻くってため息をついた。
先ほどまで酔っ払いでごった返したパーティー会場にいたため、暑さと疲労を余計に感じる。
額に滲み始めていた汗を腕で拭ってから、ようやく見えてきたその扉を押し開いた。







宵闇に沈んだ屋上は、南風が吹いているとは言え室内に居るよりはずいぶんと涼しかった。
空には爪の先より細い月。
その弱々しい光が朧気に辺りの輪郭を浮かび上がらせる。
彼はほんの少しだけ逡巡した後、最初の一歩を踏み出した。
それからは迷い無く、ただ一直線に足を進める。
ともすれば消え入りそうな月明かりの下、屋上の柵に体を預けて、こちらを見ている一人の男の下へと。

「不法侵入」
「合法だもん」

言って、男は指先でつまんだ鍵をふらふらと揺らして見せた。
それは察するに屋上の鍵なのだろう。
まさかそんな返し方をされるとは思っていなかった彼は少し面食らった表情で、しかしすぐに続く言葉を見つける。

「だもん、じゃねぇだろ。35サイ」
「はは。また坂本くんと一歳差になっちゃったね」

男…長野はそう言って笑うと、揺らしていた鍵を彼…坂本へと投げてよこした。

「っと」
「後で返しておいて」

なんで俺が、と言う反論は口にせず、黙ってそれをシャツの胸ポケットに落とした。
その流れを同じく黙って見守っていた長野は、口元だけで微笑むと感情の見えない声で問う。

「なんで来たの?」

その言葉は責め苦のようにも聞こえたけれど、坂本はそうは思わなかった。
だから答えは与えずに、長野の隣まで歩み寄ると同じく柵に背中を預ける。
ただ、黙ったままで。

「…泣いてるとでも思った?」

先とは違う問いが飛んできて、今度は長野を見ないまま、坂本は僅かに眉をひそめた。
それから何事もないような顔で、抑揚無く呟く。

「何の話だ?」
「…まぁ、いいけどさ」

分かっていてとぼけている事を、当然長野は知っているだろう。
長い付き合いだ。
察するのも察されるのも、偶然ではなく必然であるのも、彼らには当然なのだから。

「パーティーは?」
「かなり盛り上がってるな」
「そっか」
「あぁ」
「……」
「……」

何処かにぎこちなさを含んだ会話は、長く続くはずもなく。
二人の間に生まれる空白。
居心地の悪い沈黙に、南風が緩やかに吹き抜けて。
力ない月は、ただ頼りなく闇夜に潜んでいる。
声にならないもどかしさに、互いに取り繕う言葉すら浮かばないまま。
焦燥に煽られ、先に口を開いたのは長野だった。

「……戻ろうか。パーティーの途中だしさ」

わずかばかりに早口で言われた言葉と、誤魔化しのような微笑。
そこには全てを曖昧なまま、うやむやにしてしまおうと言う長野の強い意志を感じた。
けれどもそれを許してしまったら、今自分がここにいる意味がないじゃないか。
その思いから、逃げるように一歩を踏み出しかけた長野の腕を、坂本はしっかりと引き止めた。

「坂本くん?」

驚き、振り向いた彼は、一切の陰りが見られない表情。
それに声音。
至極いつも通りな…いや、それはある意味で至極不自然な様相を呈していた。
こんな時、自分を不甲斐無いと坂本は思う。
口に広がる苦みと、出かかった言葉を共に飲み下して、もう一度しっかりと長野の腕を握る。

「坂本くん?」
「まだ、いいだろ別に。どうせまだ終わらねぇよ」
「…そうかな」
「あぁ」

その言葉で納得したとは到底思えないが、長野は出しかけた足を元に戻し、坂本が手を離すのを待ってから、何処か諦めたような顔をしてもう一度柵に背中をつけた。
それからふいに空を見上げて、ゆっくりと息を吐く。
星の少ない東京の空に、投げかけた長いため息は、一体何に対してのものだろうか。
答えが知りたかった。

「…ねぇ」

空を見上げたままの長野から、

「なんで来たの?」

繰り返されたのは、最初の問い。
けれど先のそれとは幾ばくか異なる、込められた感情。
辛うじて捉えられるくらいの、ごく僅かに震えた声。

「…さぁな」

そう呟いた坂本は、柵から背を離して逆を向き、今度はその柵に両腕を乗せた。
眼下にある、星空のように煌く街の明かり…沢山の命が行き交う場所に目を細め、あまりに不確か過ぎて与えるつもりの無かった答えを口にした。


「聞こえたからだろ、声が」









何があったかなんて、聞かなくても耳に入ってきた。
それでも変わらずに笑うから。
自分たちの前でさえ、いつものように笑うから。
その強がりを疑った。
笑顔の裏に隠されて、聞こえない長野の叫び声は。
例えそれが独りよがりだとしても、確かに坂本の耳に届いていたのだ。

「…ずるいなぁ」

そう呟く長野の声は、酷く頼りない。

「そうやって、坂本くんは俺を甘やかすんだよね」
「別に、甘やかしてるわけじゃねぇよ。ただ…」

言いかけ、言い淀み、空気を吸い込む。
もしかしたら、それはやっぱり独りよがりでしかないのかもしれないけれど。
届けなければいけない思いは、言葉を音にして。

「…ただ」

強い想いで願う。

「俺はお前がいつも笑ってればいいなんて、思ってないだけだ」











南風が、一際強く二人の髪を揺らした。











「……」

しばしの沈黙。
それから訪れた、確かな変化。
坂本の肩にかかる、いくらかの重みとぬくもり。
吐き出された、小さな吐息。

「…俺、本当に泣くよ?」
「おう、泣け泣け。見ないふりしててやるから」
「…なんかそれって意味なくない?」
「心構えの問題だ」
「何それ」

変なの、と笑った長野はそれっきり、言葉を発しなくなった。
坂本も同じく黙ったまま、眼下の街を見つめ続ける。
爪の先より細い月と。
緩やかに吹く南風と。
ただ、共有する温もりだけを唯一の拠り所とするように、二人はしばらくそのままでいた。










それからどれだけ経っただろうか。

「あ」
「あ?」

何かに気づいたような声の長野が坂本から体を離し、彼の肩を叩いた。

「坂本くん、あれ」
「あれ?」

振り向き、長野が指差す方向をじっと目を凝らしてよく見てみれば。

「…あ」

見つけたのは、扉の隙間に見える、見事な四段のトーテムポール。

「何やってんだあいつらは…」
「ほんとにね」

長野がおーいと心持ち大きな声でそれを呼べば、柱は一つ一つになって、それぞれに何処か気まずげな表情を浮かべる。

「やっべ、見つかったよ…」
「うわ、サイアク〜」
「誰だよ黙って覗こうとか言ったヤツぅ〜!!」
「…いのっちじゃん」
「あは☆」

途端に賑やかになる屋上の一角に、坂本と長野は顔を見合わせて苦笑した。

「全く、なぁにやってんだお前らは」
「パーティーの最中なのに六人全員抜け出したらまずいだろ?」
「いや、だって気づいたら坂本くんと長野くんがいないからさぁ〜」
「心配で探しに来たの!」
「そしたらなんかすげー入りづらい雰囲気作ってるし」
「だから様子を見てたんだけど…」
『お邪魔でしたか?』
「はぁ?」

見事に揃った四人の声に、坂本は怪訝な声で応える。
けれどもその隣で長野が曖昧な含み笑いを浮かべて小さく首を傾けた。

「うーん、まぁ確かにちょっと」
「っておいおい」
「なんてね、冗談冗談。じゃあお迎えも来た事だしそろそろ戻ろうか」

あっけらかんとしたいつもの彼の顔で笑ってそう言われたけれど、坂本としてはまだその笑顔をどこかで疑ってしまう。
それが顔に出ていたのか、ことさら柔らかく微笑んだ長野がゆっくりと、何処か囁くようにしてそれを言う。

「大丈夫だよ、もう」

これは強がりじゃないから、と付け足された言葉に。
向けられた曇りのない瞳に。
確かな輝きを見つけて。
ようやく坂本は頷く気になれた。

「…なら、いい」

心から笑えているなら、それでいい。

「…ちょっとちょっとぉ〜なんか意味深な会話を交わしてますわよ、奥さん!」
「やだわ〜なんかやらしいわぁ〜」
「うひゃひゃ」
「俺らやっぱり邪魔だったんじゃ…」
「お前らなぁ…アホな事言ってないで戻るぞ」
『は〜い』

どうにもこいつらがいるとシリアスモードになりきれないな、なんて苦笑しながら歩き出そうとした坂本の腕を、軽く後ろに引く感覚。

「ん?」

振り返れば、何故か少し分が悪そうな顔をした長野が地面を見つめながら坂本の腕を捕まえている。
何だか、彼にしてはかなり珍しい表情だ。

「長野?どうした?」
「あの…さ」
「おう」

聞き取りづらい、遠慮がちなぼそりとした声が、たどたどしく綴る言葉。

「…声」
「あ?」
「だから、声。もしまた、坂本くんに聞こえるような事があったらさ…」

あぁそう言うことか。
坂本はひとりごちて、胸ポケットを探った。
するとすぐに指先に触れる、硬質な感覚。
それを取り出して、笑みを浮かべる。

「いつでも聞きつけて、肩貸しに来てやるよ、屋上までな」

そう言うと、つまんだ鍵を揺らして見せた。










聞こえない君の叫び声を。
聞きつけて僕は走る。

君を一人で泣かせないように。
無理矢理笑わせないように。


ただそっと、君が寄りかかる事の出来る肩を貸すために。






END.







≫Kohki's Comment.

読むと分かるとおり、こちら昨年の博さんの誕生日辺り、ガコイコのパーティーがあった後くらいに書いたものだったりします。(またもやお蔵出し)
博さん(と言うかその周り)に何があったかはこの時期ということで各自察して頂けると幸い。
友からは難しいとダメ出しされてしまったのですが、ここまで書いてボツにするのももったいなかったのでアップしてしまいました。(貧乏根性)
ただちょっと、博さんに寄りかからせてあげたいなぁと思ったのが始まりのお話。
ちなみにカミセンと井ノ原さんは分かってていつも通りはしゃいでいるんだと思われます。
うーんもうちょっと俺の文が上手ければなー(根本的な問題)

2008.07.09.Wednesday

Background:Little Eden