差し出された一本のロリポップ。
呆然と見上げたその先には、柔らかな微笑みを浮かべた奇妙な男。
**CALAMITY NOVEMBER**
Side:Go Morita & Hiroshi Nagano
-It happened in the distant past.-
剛がその組織の一員になったのは、彼が十歳になった年のことだった。
そもそも剛はこの地下組織の実態を正確には知らない。
いや、知らないと言うよりは知る必要性を感じなかったので知ろうとしなかった、と言った方が正しいか。
とにかく、当時の剛にとっては衣食住さえ用意されているのであればそれだけで十分だった。
何せそれだけあれば、今までよりは百万倍マシな生活が出来る。
だからこの組織がどんな組織だろうが、自分が生きて行けるだけのものを与えてくれるならばそれで良かった。
ただ、世界を変えてくれるのであればそれで良かったのだ。
そんな剛に世界を与えてくれた人。
いや、それはもはや剛の世界そのものと言ってもいいその人と。
出会ったのは十年前。
忘れもしない、十一月の一日。
剛がカラミティ・ノベンバーと呼ぶ、その日。
秋から冬へと様相を変え始めた寒空は、綺麗に晴れ渡っていて。
剛は朝から上機嫌だった。
この冬を余裕で越せるくらいの、まとまった金が手に入ったからだ。
剛は物心付いた時にはもうストリートチルドレンだった。
当然親の顔は知らない。
別段知りたいとも思わない。
何せ明日も分からぬ我が身である。
自分の置かれた状況を嘆く暇など到底なかったし、物乞いから犯罪と言えることまで、生きるためにはなんでもやった。
今更親に会いたいなどと、思えるはずもなかった。
「おい、剛!お前一体何やらかしたんだ!?」
「あ?なんだよいきなり」
ほくほく顔でねぐらのある路地裏に金の隠し場所を探していた剛は、仲間の一人が血相を変えて駆け寄ってきたので少なからず動揺した。
まさかこの金のことがもうバレたのだろうか。
ヘマはしていないつもりだったが、仲間の反応を見るとそうは思えなかった。
そう。
この冬を越せるほどのまとまった金は、昨晩表通りに止まっていた黒塗りの車のトランクからくすねて来たものだったのだ。
今思えばあまりにも無防備過ぎな開けっ放しのトランク。
そこから除いていた紙袋の中にあった予想外の大金。
その金に目がくらみ、それが一体誰の車なのかも分からぬまま手を出してしまったのだが、どうやら迂闊過ぎたらしい。
何やらきな臭いことになりそうな気がして剛は顔をしかめた。
「ヴィトリアの連中がお前のこと探してるって、すごい噂になってんだよ!!」
「ヴィトリア?」
「知らないのか?超有名な地下組織だぜ?もちろん、激ヤバの」
「…マジかよ」
噂の伝達の速さと仲間の酷く真剣で怯えた様子を見るに、どうやら事態は深刻なものであるらしい。
今更ながら剛は事の重大さに気づいて、更に追い討ちをかけるような仲間の言葉に身のすくむような恐怖を感じた。
「とりあえずしばらくどっかに逃げた方がいいって。…つってもあの組織、裏切り者とか世界中どこにいても探し出して消すって話だし…もしかしたら、どこにも逃げ場所なんてないのかも…」
「……っ」
剛は一気に増した緊張に息を呑んだ。
そんな組織であるならば、今更謝って金を返したところで、許してくれるようなことはないだろう。
ならばやはり今の剛に出来るのはひたすら逃げることだけだ。
例え逃げ場所がないのだとしても、ここでただじっとしているよりは逃げ回っていた方がいくらかはマシだろう。
剛はとにかく手に入れた金と必要最小限の生活用品だけを紙袋に詰めて、この場所を立つことに決めた。
大丈夫、うまくやれる。
今までだってなんとか生きてこれたじゃないか。
必死で自分にそう言い聞かせて、早鐘のように打つ心臓をなんとか静めようと試みた。
そして迎える、運命の瞬間。
「はあっ…はあっ…!!」
剛は必死に走っていた。
自分が何処をどう走っているのかさえ分からないくらい、必死だった。
一度足を止めてしまえば、自分はもう二度と走り出すことは出来ないだろう。
それが分かっていたから、とにかく無我夢中で走っていた。
「くそっ!!」
剛が荷物をまとめ終え、路地裏を出ようとした時。
そこにはすでに組織の人間らしき、黒いスーツを着たサングラスの男が一人いた。
その右手に鈍く光る銃を見止め、大慌てで別ルートを行こうと踵を返した剛だったが、相手は目ざとかった。
「対象発見」
と、その男が落ち着き払った様子で口にするのと、剛が駆け出すのとは同時だったと思う。
けれど相手は大人で、剛はまだほんの十歳の子供だ。
コンパスの差は歴然だった。
やがて追い込まれた行き止まりの路地。
目の前を塞ぐコンクリートの壁。
背後には黒光りする銃を持った男。
「く、来んなっ!!来んなよっ!!」
張り上げた声は情けなくも裏返った。
足が酷く震えてとても立っていられる状況ではなかった。
大きく尻餅をついて、壁にもたれ、ただガチガチと震える。
目の前にあるのは死への恐怖。
ただ、それだけで。
相手が一歩近づく度、それは更に重みを増していく。
けれど。
「待った」
ふわりとした声が男の手を止めさせた。
男は振り返って相手を認めると、その相手のために道を明けるように身体を半歩ずらす。
それで剛からも声の主が見て取れた。
そこにいたのは左の目元にほくろのある、優しげな風貌をした男で。
彼は剛の目の前まで歩いてくると、見た目どおりの柔らかな声で、おもむろに問いかける。
「君が、剛くん?」
救いの神かと思いきや、相手は自分の事を知っているようだった。
つまりはこの男もサングラスの男の仲間なのだ。
相手の空気に流されて一瞬揺るんでいた警戒を再び取り戻し、剛は否定も肯定もせずにただ相手を見た。
怯えきった心では、相手を睨みつける気勢はもはや無い。
それでもせめてもの抵抗で、相手をじっと見つめ続けた。
どれだけそうしていただろうか。
相手もこちらを見つめたまま何も言わなかったので、剛は恐怖の天辺を通り過ぎ、次第に困惑していた。
この男は一体何をしたいのだろう。
後ろのサングラスの男も何も言わずに黙ったままだし…
「はい、どうぞ」
「…え?」
剛の困惑が相手にも伝わった結果なのかなんなのか。
すっと、目の前に片膝をついた相手がにこりと微笑んで差し出したのは一本のロリポップ。
その包み紙は多分、コーラ味。
「子供って、こういうの好きだよね?」
そう言うと自ら包み紙を剥いて、呆けている剛にまたそれを向ける。
「はい、あーん」
相手の真意が測れないまま、けれどここで逆らって殺されてしまうのは嫌だったので、剛は恐る恐る口を開いた。
すると目の前のロリポップが口の中に入れられる。
甘い。
「はは、子供って素直だなぁ。それに毒が入ってたらって可能性は考えないんだ」
「!?」
その言葉にぎょっとして、剛が慌ててロリポップを出そうとすると、相手はあははと笑ってその手を止めた。
「ごめんごめん、冗談だから。毒なんて入ってないよ。安心して食べな」
やっぱりにこりと笑って、それからくしゃりと剛の頭を撫でる。
驚いて剛が固まると、またおかしそうに笑った相手はサングラスの男に顔を向けて言った。
「ねぇ井ノ原。この子、俺が拾っちゃだめかな?」
予想外の言葉に剛が目を丸くして言葉を無くしていると、井ノ原と呼ばれた男は苦笑して、サングラスを外した。
意外にも、そこにあったのは小さく細い目と、人好きのする笑顔。
「長野く〜ん、犬猫じゃないんだからそんな簡単に拾えるわけないっしょ」
「あ、やっぱり?でも俺、この子気に入っちゃったんだよね」
「あんたはもー」
しょうがねぇなぁ、と笑った男は、自身が長野くんと呼んだ男の隣に並んでしゃがみ込むと剛をじっと見てきた。
つい身構えた剛を気にすることなく、やはりその頭をくしゃりと撫でてくる。
「お前、ストリートチルドレンなんだよな?どうする?長野くんに拾われてみる?」
お前が決めていいよ、とあっさり言われて戸惑う。
正直さっきからいまいち話の展開について行けない。
剛はロリポップを含んだままの口をもごもごさせて、どうやら長野と言う名前らしい男を見上げた。
「ん?なに?」
「…拾うって、どういうことだよ」
「そのまんまの意味だよ。俺が君を拾う。つまり俺が君の親代わりになるってこと」
「親代わり…」
言われた言葉を繰り返してみたが、親など居た事のない剛にはやはり感覚が掴めず、ぎゅっと眉間にしわを寄せる。
それをおかしそうに見ていた長野はいきなり人差し指を突き出すと、剛の眉間のしわをぶにっと押し潰した。
「難しく考える必要はないよ。君の目の前にある選択肢は二つだけだから」
二つだけ?
首を傾げる剛に対し、にっこり笑顔のまま、その人はとんでもないことを言い放った。
「生きるか死ぬか。君はどっちを選ぶ?」
その横で井ノ原が「あんたそりゃひでぇよ」と盛大に大笑いした。
「まぁ人間はいつか必ず死ぬんだし。だったら足掻いてみるのも悪くないんじゃない?」
ただただ唖然とするしかない剛に、柔らかく微笑んだ長野が言った言葉はつまるところ要するに。
剛に拒否権は皆無だということなわけで。
提案というよりは脅迫に近かった(いやむしろそのもの)らしい長野の発言に、剛はせめてもの抵抗で子供らしからぬ深く長いため息をついた。
まぁこの人たちの組織がどんなものであっても、とりあえず今の暮らしよりはマシな暮らしが出来そうだし。
(だってこの人らの着てるスーツやネクタイは高そうで、革靴だって多分どっかのブランド物だ)
何より話に乗らなければ自分に未来はなさそうだし。
だったらもう自分が選ぶ道はたった一つしかないわけで。
早々に結論を出した剛は全てを吹っ切ったような顔をして、目の前の食えない相手に目一杯不敵に言ってみせた。
「仕方ねぇから拾われてやるよ、あんたに」
一瞬不意を突かれたような顔をして。
それからすぐに破顔した長野は。
「その度胸、益々気に入った」
嬉しそうに剛の髪をくしゃりと撫でた。
(そして世界は回り始めた。終わりを憂う、事も無く。)
2010/06/08/Tuesday
オバドラ祭り参加作品。