喧騒にまみれた繁華街にありながら、異質な静けさを保っている一角。
煤けた雑居ビルの一室。
十畳ほどのその部屋は、コンクリート打ち放しの壁に囲まれて冷え冷えとした空気に包まれていた。
置かれた物が極端に少ない室内に、あるのは机と本棚の二つだけで。
その机のそばには、つい最近この部屋の主になったばかりの男と、甲高い声で騒ぐ三人の女の姿があった。
「ねぇー剛、いつまでもそんな辛気くさい顔してないでさぁ」
「遊びましょうよ、景気良くぱぁーっとさ!」
「そうそう!」
きゃらきゃらと笑って姦しい女たちをよそに、剛と呼ばれた小柄な若い男は鬱陶しそうに眉を潜めただけで口を開かない。
この部屋にはおよそ不釣り合いな、どっしりとしたマボガニー製の上等な机に革靴を履いた両足を投げ出して、鋭い視線だけを女たちに寄越して返した。
彼の内心の苛立ちを表すように、体重を受けている革張りのイスがキィキィと鳴る。
「何よぉ、睨まなくてもいいじゃない!」
「怖い顔してないで、ほら気分転換しましょ気分転換!」
「近くにいいバーが出来たのよ。たまには昼から呑みに行くのも良くない?」
いいわねそれ、と言い合う女たちの言葉は一切耳に入っていないかのように、剛は鋭いままの瞳をブラインドもカーテンも付けられてはいない窓の外へと向けた。
良く晴れた十月の空は、雲一つない青に染まっている。
それは忌々しいほど、爽快に。
「…ねぇ、剛。気持ちは分かるけど、仕方がないじゃない」
聞く耳を持たない剛に向かって、女の一人がため息と共に吐き出した言葉。
それを聞いてぴくりと小さく震えた身体に気づかないまま、女たちは言葉を並べ立てる。
「あの人にはあの人の目指す場所があったってことでしょ?そりゃいきなり組織を抜けるなんてとんでもない話だけどさ」
「あんだけ慕ってたのに置いていかれたのはショックでしょうけどねぇ。もう忘れなさいよ。それがあんたのためよ?」
「そうよ。だってあの人…」
躊躇いがちに、でもはっきりと。
女はそれを口にする。
「消されるわよ、絶対」
ガツッ、と重苦しい音がして。
机の上ではライトが派手な音を立てて倒れた。
「ちょ、ちょっと剛…!」
女が驚いて見やった、剛の顔は俯いていてその表情を読めない。
先の重苦しい音は剛がマボガニー製の机を思い切り蹴った音だ。
一人が仕方なくそっとライトを戻そうとすると、唸るような声が聞こえて三人は息を飲む。
「…消えろ」
「ご、剛?」
「…怒ったの?」
「で、でも…あんただって分かってることでしょ?」
組織を抜けると言うことが、どういうことなのか。
剛の反応を恐れながらも、口を開くことをやめない三人に、ぶつけられたのは悲鳴のような怒声。
「…っ、消えろっつってんだよ、クソババア!!」
「なっ!?」
「ちょ、なんなのよその言い方!!」
「わざわざ励ましに来てやったってのに!!」
「はいはい、お姉ちゃんたち、剛様は本日超絶不機嫌だから下手に刺激しないでちょーだいね〜」
「「「井ノ原さぁん」」」
「どーもー」
いつの間に室内に入って来ていたのか。
場にそぐわないほどにのほほんとした声で女たちの甘えた声を受けたのは、スーツ姿に黒いフレームの眼鏡をかけた細い目の男だった。
剛より大分背が高く、また年齢も彼より上だろう。
しなだれかかってくる女たちを慣れた様子で宥めて、部屋の外へと誘導していく。
「今度埋め合わせするからさ、今日は俺の顔に免じて許してやってよ」
「ほんとよぉ」
「約束だからねぇ」
「楽しみにしてるからっ」
「はいはい」
ぶすくれた顔ながら、なんとか納得して去って行く三人にひらひらと手を振った細い目の男…井ノ原は、ぱたりとドアを閉めて踵を返す。
途端に静けさを取り戻した室内に、苦笑を一つ、落として言った。
「一応、あれは本気の心配だと思うぞ?」
その言葉にしばしの間沈黙が続き、やがて聞こえてきたのは小さな声での「分かってる」と言う呟きで。
それならばいいと応じた井ノ原は、靴音を響かせながら机のそばまで歩み寄り、さらにそれを越えて最奥にある本棚の前で立ち止まった。
いかにも高そうなダークブラウンのブックシェルフに、並んでいるのは全て洋書だ。
その中の一冊を無造作に選び取り、特別眺めるでもなくぱらぱらととめくった彼は、剛に背中を向けたまま、世間話でもするようにそれを口にする。
「撃たなかったんだって?」
小さく、息を飲む気配がする。
井ノ原は振り返らないまま、口元だけで笑った。
「撃てなかった、の方が正しいか」
ぱたり、と閉じた本を元の場所に戻すと、掠れた声の呟きが井ノ原の耳に届く。
「…井ノ原くんなら、撃ったのか?」
その問いに一瞬の沈黙を落として。
それからすぐ、温度のない声が当たり前のように口にした答えは。
「撃ったな」
至極、シンプルなものだった。
無情とも言える井ノ原の言葉に、背を向けたままの剛が小さく呻く。
けれど井ノ原の言葉は温度を帯びることはなく、むしろさらに感情の乗らない声で坦々と続ける。
「それが仕事なら、身内だろうがなんだろうが、俺は喜んで引き金を引くよ」
この井ノ原快彦という男が情に絆されると言う事はまずありえない。
何故ならば彼はプロフェッショナルであり、この組織のナンバーツーだから。
それは彼にとって、実行して然るべき当たり前のことなのだ。
「…っ、俺は…」
甘いのだろうか、自分は。
言葉にならない問いかけを、受け止めて井ノ原は静かに笑う。
「お前と俺とじゃ立場が違うんだし、それもしょうがねぇよ」
言った井ノ原は再び洋書に手を伸ばして、特別読むでもなくそれをぱらりぱらりとめくり始める。
「なんたって、お前の世界はあの人一色だからなぁ」
どこか羨望の混じった声で、井ノ原は言う。
「俺はお前が羨ましいよ、剛」
それは唯一温度を持った、井ノ原の心からの言葉だった。
(その日慟哭の声を上げたのは、一体誰だったのだろう)
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