優しさはね、
ここにあるんだよ ――
俺の胸を叩いたあいつの手は、普段よりもずっと冷たかったけれど。
それでもその一言で、俺は見失いそうになっていた物を捕まえた ――。
White light
誰もいないトイレで、坂本は思い切り水道の蛇口を捻った。
シンと静まり返っていた場所に、激しく水が流れる音が溢れ出し、
それはタイル張りの床に反射したのか、常よりも大きく聞こえるように感じられた。
坂本はのろのろと顔を上げた。
掃除担当の人間がきっちりしているのか、よく磨き上げられた鏡に、
いくら事務所の最年長デビュー記録を塗り替えたと言われてもまだ20代であるのに、
実年齢の2倍も年を取ってしまったかのような、
疲れ切った自分の顔が映っていた。
ひどい顔だ。
こんな顔は決して、共演者やファンには見せられないが、
幸いにもここには誰もいない。
「畜生・・・」
水が流れ続ける音に混じって、坂本の掠れた声が、ポツンと行き場を無くした迷子のように落ちた。
人間には、誰だって表と裏が存在する。
外面を良くするというのは、生きて行くための1つの手段だ。
坂本ももう何も知らない甘い夢に縋っていられたガキではない。
それなりに円滑に事を運ぶために、愛想笑いを浮かべることだってある。
だから、頭ごなしにそういううわべだけを取り繕うやり方を否定するつもりは無かった。
自分には表も裏もありませんなどと公言する人間の方が、逆に信用に値しないと思う。
特に芸能界という場所は、実力が全て物を言う。
昔よりはだいぶマシになったとは言え、その人が出ているだけで視聴率や売上が上がるなら、
それなりのワガママを言っても周囲は許してしまうのだ。
だけど、分かってはいても。
「畜生・・・」
再び、先程と同じ言葉を坂本は吐き捨てた。
分かってはいても、堪える物だった。
その一瞬前まで、にこにこと愛想良く相対してくれていた人間が、
「あいつ、使えねえんだよ」と自分を扱き下ろしている現場を見てしまうことは。
「なんで、あんなガキに俺がよろしくなんて言わないといけないんだ」と喚いている現場を見てしまうことは。
いくら、うわべだけの付き合いが横行する芸能界でも、
自分はアイドルとかタレントと呼ばれる前に1人の生身の人間だ。
そんな、あまりにも低俗な扱いに本当に我慢してまでこんな場所にいたいのか。
坂本の中で、あの現場を見てしまってからずっと、グルグルと後ろ向きな考えが回り続けていた。
「あ、坂本さん」
持て余した気持ちを流れる水を見つめ続けることで、やっとほんの少しだけ整理した坂本が、
楽屋に置いていた荷物を纏め帰ろうとドアノブに手を掛けたところに、
同じタイミングで向こうからドアが開けられた。
目的の物を掴めなかった手が、虚しく空を切る。
些細なことに思わず舌打ちをしそうになり、しかし開けられたドアの向こうに立っていたのがマネージャーだと気付き、
あからさまに不機嫌な表情だけはしないように何とか自制を掛ける。
「何?」
だがやはり、声のトーンは普段よりかなり低めになってしまい、気付かれたかと訝ったが、
今のマネージャーは坂本の僅かな声の違いなどに気付く余裕は無いようだった。
「あの、坂本さんは今日はこれで終わりでしたよね?」
「そうだけど」
後は帰るだけだということくらい、スケジュールを把握しているマネージャーなら
本人に聞かずとも分かるのではないかと付け加え掛けて、さすがに吐き出す前に飲み込んだ。
よく見ると、目の前にいるマネージャーの表情は、どこか切羽詰っているように思えた。
「何か用事はありますか?」
「用事?別に無い。帰るだけだ」
明日も早いしなと続ければ、あ、そうでしたよね・・・とマネージャーの手は、
忙しなく持っていた手帳を繰った。
理由は分からないが、何やら彼は軽くパニックを起こし掛けているらしいと理解した坂本は、
僅かに眉を顰め、「何かあったのか?」と問い掛けた。
緊急の仕事でも入れたいのだろうかと予想する。
すると、マネージャーは手帳から顔を上げて、その坂本の予想をまるで根底から覆す答えを口にした。
「長野さんが」
「長野?」
突然、前触れも無く飛び出した名前を、坂本はただ繰り返した。
今日は1日中彼とは別々の仕事だったので、会っていない。
確か向こうの今日のスケジュールは、
午前中は例の訓練を受け、午後から夕方まで取材が立て続けに入っているはずだった。
「長野がどうかしたのか?」
「今、病院にいらっしゃるんです」
病院だって?
マネージャーの答えは、またも坂本の予想を完全に覆した。
「病院ってどういうことだ?何があった?」
掛けていた自制が外れようとしていた。
坂本の声のトーンは今や、不機嫌を隠す術を無くしている。
ただ、その不機嫌の理由は先程まで自分の中でグルグルと回り続けていた考えが原因では無く、
マネージャーが告げた内容ではあったが。
「今日の全ての仕事が終わった途端に、倒れたんですよ、長野さん。
最近、オフの日も優先してあの訓練を受けられていたので、体と、多分心も悲鳴を上げていたんだと思います。
すみません。僕ももっと気を付けていれば良かったんですけど。
長野さん、いつも笑ってらっしゃったから。
大丈夫だよっていつも」
すみませんと、マネージャーは唇を噛み締めた。
坂本は小さく舌打ちした。
それはもちろん、この自分とそれ程に年の変わらないマネージャーに対してではなく、
そこまで頑張り続けた長野と、そして自分に。
長野の状態に気付けていなかった自分に対して。
「じゃあ、あいつは今、あそこに?」
「はい。社長に指示を仰いだら、あそこに連れて行けと言われたので。
それで、坂本さんに長野さんの付き添いをお願い出来ないかなと思うんです。
僕が付き添えれば問題無かったんですが、これからどうしても井ノ原さんの現場に向かわないといけなくて」
縋るように自分を見上げてきたマネージャーに、坂本は「分かった」と頷いた。
頼まれなくても、坂本はこれから長野のところに行こうと考えていた矢先だったので好都合だった。
坂本の答えにほっとしたのか、マネージャーの表情が緩む。
「ありがとうございます。助かります。
とりあえず、明日とあさっての2日間は何とか長野さんのスケジュールはオフにしてあります。
なので、この2日間だけは、何も考えずに休むようにと伝えて下さい」
じゃあ僕は急ぎますのでと、手帳を閉じたマネージャーは、バタバタと走り去った。
残された坂本は、楽屋に忘れ物が無いかを再度確認し、服のポケットから財布を引っ張り出す。
そこに挟んでいた住所と電話番号だけがシンプルに書き記された紙切れを取り出して、
「お疲れ様です」とちょうどすれ違ったタレントに頭を下げ、タクシーを拾うために地下に向かった。
「ここに行って下さい」
地下から外に出て、タイミング良く走って来た空車と頭の上に出したタクシーを捕まえて、
後部座席に乗り込んだ坂本は、年配の気難しそうな運転手に持っていた紙切れを見せた。
小さく頷いた運転手がアクセルを踏み、タクシーが動き始めた。
車窓に流れる夜の街の光景を、何気なく見ながら、坂本はこれから会いに行く長野に想いを馳せた。
長野博は、坂本と同じグループのV6に所属するメンバーの1人だ。
さらに坂本にとっては、長い不遇の時代を共に過ごした相手でもある。
そんな彼が、実は生まれた時からテレパシーと呼ばれる一種の超能力を持っているのだと打ち明けたのが、
デビューして1回目の記念日だった。
側にいる人間の心の声が、聞きたくなくても聞こえてくるのだと。
1人で抱えていた秘密を坂本達5人に話した長野は、自らV6を抜けようとした。
心を読んでしまう人間が側にいるのは気持ち悪いだろうからと。
不気味以外の何者でも無いだろうからと。
5人の説得によって思い留まった長野は、その日からテレパシーの力を制御する訓練を正式に受けるようになっていた。
長野の力はかなり強く広範囲に渡るらしいので、目の前にいる人間の心の声はどうしたって聞こえてしまうのだが、
せめて少し離れた場所にいる人間の心は読まないようにするために。
全てを聞き取ってしまうことは、長野自身を疲弊させる物でしか無いから、
その確率を下げるために。
しかし、それは簡単に習得出来る物では無く、大概のことは器用にこなす長野が、
いまだに自らの能力を自由自在に制御することが出来ずにいた。
さすがに焦って来ていたのかもしれない。
マネージャーがオフの日も優先して訓練を受けていたと長野に付いて話したことが、
何よりの証拠だった。
「お客さん、着きましたよ」
いつの間にか、車窓の光景も意識から消え、どっぷりと思考の渦に嵌り込んでいたらしい。
坂本は運転手の事務的な声に我に返り、車窓に目的の場所が映っていることに気が付いて、慌てて財布を取り出した。
ハンドルの横に表示されている値段を渡し、「ありがとうございました」と言って開けられたドアから降りる。
坂本が降りると、パタンとドアはすぐに閉じられ、あっという間にタクシーはいなくなってしまった。
持っていた財布をポケットに仕舞い、坂本は正面玄関の上に掲げられた病院名を見上げ、
その名前が記憶にある物と違っていないことをチェックして、止めていた足を踏み出した。
ここは、長野の事情を知る事務所の社長が、マスコミなどに嗅ぎ付けられないようにとわざわざ探して用意した、
テレパシーと言う、言わば世間的にはインチキだと言われることの多い物を抱えた長野の掛かり付けの病院である。
受付で長野の名前を告げると、ナースがにこやかに部屋の番号を教えてくれた。
5階だという部屋に行くために、廊下の突き当たりにあるエレベーターに乗り込む。
ツンと消毒薬の匂いが感じられて、ああ、ここは病院なんだなと当たり前のことを、
今さらながらに実感した。
5階でエレベーターを降り、ちょうど巡回をしていたナースに会釈をして、長野の部屋番号を探す。
510と書かれた部屋番号の下に、長野の名前は書かれていなかったが、
コンコンと軽くノックをした。
しばらく耳を澄ませてみたが、返事は返って来ない。
坂本はそっと病室のドアを開ける。
まだ消灯の時間では無いため、病室には白い灯がともっていた。
その下に置かれた白いベッドの上に、長野はいた。
坂本が近付いても動かない。
大きな色素の薄い綺麗な瞳は今は固く閉じられてしまっていた。
顔色も真っ白で、坂本には一瞬、長野が白いベッドに溶けて消えてしまうように思われた。
思わず、布団から出ていた右手に触れる。
そこはとても冷たく、坂本は堪らなくなって、ぎゅっと自分の体温を与えるように握り締めた。
その瞬間、「ん・・・」と長野が呻き、薄っすらと閉じられていた瞼が震え開かれた。
「悪い。起こしたか?」
坂本は長野の右手を握ったまま、目を覚ました彼をそっと覗き込む。
長野の瞳は焦点が合っていなかったが、じょじょに色を取り戻し、やがて驚いたように見開かれた。
「・・・さかもとくん・・・?」
寝起きのせいか、普段の彼よりも舌足らずで掠れた声が、坂本を呼んだ。
坂本はコクンと頷いて、ベッドの側に置かれていた椅子に腰を降ろし、
「マネージャーから聞いた」と自分がここにいる理由を端的に告げる。
「・・・そっか・・・」
「具合はどうなんだ?」
「・・・ちょっとまだ、クラクラする、かな・・・」
「じゃ、絶対安静だな。マネージャーからも伝言。
明日とあさってはオフにしたから、何も考えずに休めとさ」
「・・・さすがに今回はその申し出がありがたいよ・・・」
長野は苦笑して言った。
そう言いつつ、きっと彼は、心の中で自身が休むことで掛かる周囲への迷惑を考えて、
自らを責めているのだろうということを、坂本はわざわざ聞き出さなくても感付いていた。
長野がそういう人間であることはもう、短いとは言えない付き合いの中で分かり過ぎるくらいに分かっている。
そして、こういう場合に「気にするな」と言っても、逆効果であることも。
だから坂本は、それ以上は何も言わず、長野の右手を相変わらず握り締め、
もう片方の手でゆっくりと長野の髪を撫で始めた。
柔らかい髪は、坂本の指を甘く飲み込もうとする。
長野の瞳が、再び閉じられた。
ふとそこで坂本は、長野にとっては、今日自分が経験したような出来事は、
日常茶飯事なのだと気が付いた。
どれだけ言葉では取り繕われても、彼には相手の心の内が聞こえてしまう。
愛想笑いの裏で、罵られたりなどということもダイレクトに伝わってしまう。
いい加減、人間不信になったりしないのだろうか。
相手の心の内なんて読めない坂本でさえ、今日のような場面に遭遇すると、
こんなにもモヤモヤとしてしまうのに。
それは純粋な疑問だった。
「長野」
「なあに?」
瞳は閉じたまま、坂本の呼び掛けに長野がほわんとした声で答えた。
「聞きたいことがあるんだけど、いいか?」
「俺で答えられることならね」
確認のように聞いた坂本に、長野はふっと目を開けて微笑んだ。
坂本はそんな長野にこう言った。
「お前さ、人間不信にならない?」
「また、唐突な質問だなあ」
しかも、抽象的過ぎない?それと長野が楽しそうにクスクスと笑う。
だが坂本はさらに続けた。
「お前はテレパシーを持っていて、側にいる人間の心が読めてしまうんだろ?」
「うん」
「じゃあ、口で言ってることと、実際に考えていることが全く違うなんて人間にも出会ったことがあるんじゃないか?」
そう続けると、ああ・・・と長野は坂本が何を聞きたかったのか納得したらしかった。
「残念ながら。世の中にはそういう人の方が多いみたいだね」
達観した長野の答えに、じゃあと坂本は言い募った。
「そんな奴らばっかりで、人間不信にならないのか?」
長野は今度はすぐには答えなかった。
大きな瞳がじっと坂本を見上げ、握られていない左手が坂本の頬に伸びた。
ひんやりと冷え切った体温が白い指先から這い上がってくる。
坂本は根気強く、長野の答えを待っていた。
自分の中で、あの現場を見てしまってから渦巻いている後ろ向きな考えを解決してくれるヒントは、
長野のこの答えが持っていると、何の確信も無いのに坂本には思えたのだ。
「俺は信じてるんだ」
漸く、長野が口を開いた。
「何を?」
「人間の優しさを」
坂本は咄嗟に言葉が出てこなかった。
余程、呆気に取られた顔をしていたのかもしれない。
頬に触っていた長野の左手が動いて、トンと坂本の胸を叩いた。
その行動の意味が分からずにいると、もう1度、長野の手が坂本の胸を叩く。
「ねえ、世の中で1番怖いのは人間だって言うよね?」
「ああ」
「でもね、俺はこうやって優しい気持ちに触れる度に思うんだよ」
長野の真っ白な顔に、綺麗な笑顔が広がった。
「坂本君のここには、今、優しさが溢れてる。
俺のことを心配してくれている優しさがいっぱい詰まってる」
だからねと、長野は笑顔をさらに深める。
「誰かを心配して、誰かを大切に思って。
そうやって優しさを溢れさせることが出来るのもまた人間なんだよ」
ね?捨てたもんじゃないでしょ?と、長野は嬉しそうに顔を綻ばせた。
光が見えた気がした。
長野が叩いた自分の胸に、坂本は長野の髪から手を離して触れた。
そのまま、長野の顔を見ると、全て分かっていると言うように、大きな瞳が坂本を捉えていた。
坂本は両手で長野の両手を握り締めた。
「坂本君?」
不思議そうに首を傾げた長野に、「お前の手、冷てえよ」とぶっきらぼうに告げる。
「だから、しばらくこうやって握られてろ」
「なんか、こんな場面を誰かに見られたらあらぬ誤解を招きそう」
どうせ噂になるならかわいい女の子とがいいなと憎まれ口を叩きながら、
だけど長野も、坂本の手を離そうとはしなかった。
終
≫Kohki's Comment.
『ツートップ Festival in V6』の参加者へ主催の小糸様より送られたお礼小説でございます。
暖かさと優しさがにじみ出て、とてもほっこりとする素敵なツートップのお話。
そんな二人を想像するだけで俺は幸せです。(笑)
小糸様素敵な小説をありがとうございました!&主催お疲れ様でした!
来年も是非開催して下さい!張り切って参加させて頂きまっス♪
2008.12.02.Tuesday UP
|